column column column 三宅克巳という水彩画家
美術館学芸員の重要な仕事のひとつに、作品の制作年代を特定する作業があります。その作品は画家がいつの頃に描いたのか、できうる限り制作年を絞っていくことで、画家の表現がどのように展開したのかを、時系列を追って知ることができます。たとえばパリで燃え尽きた画家・佐伯祐三(1898-1928)の場合なら、美術学校時代にルノワールなどの甘美な表現を好み、渡欧してしばらくはシャガールやセザンヌの技法を取り入れ、そしてヴラマンクからアカデミックだと罵倒されて以降、大きく表現が変化するといった具合に、年代ごとに作品を分類することが比較的容易に行えます。 多くの人の心を動かし、他の作家へも影響を与える絵画表現がどのように誕生するのか。その過程や変化を追うことができれば、これからの美術の展開にも有益であることは間違いありません。しかしながら、こうした制作年代の特定がとても難しいのが、今回取りあげる三宅克己 (1874-1954) の作品群です。三宅は明治から昭和にかけて活躍した水彩画家で、17歳の時に東京慈恵医院で来日中のジョン・ヴァーリイの展覧会を見て感動し、以後水彩画家の道を進むことを決意しました。20歳で日清戦争に従軍、除隊後渡米し、イェール大学付属美術学校に入学、現地での展覧会で作品が完売し、得た資金で水彩画の本場ロンドン、さらにパリへ渡るというルートを開拓しました。一方で明治期後半、30歳に差し掛かる頃から文芸誌『明星』や『文章世界』の口絵を描き文学者と交流を深め、さらには当時到来した水彩画ブームのけん引役となるなど、この画家の果たした業績には目を見張るものがあります。
水彩画を油絵などと同等の芸術性を持つジャンルとしてその地位を高めた三宅ですが、制作年が画面などに記載されていない場合は、どの時期のものなのか、表現を観察するだけではなかなか推定できません。それほどに初期から晩年まで一貫した姿勢で風景に対峙して制作していたようです。三宅の作品を複数並べてみると、人間の進歩というものが本当にあるのかどうかさえ疑問に感じさせます。いや、もしかすると三宅の作品は年代ごとに少しずつ変化しているのに、それに気づく感受性が僕には欠如しているのかもしれない。大げさかもしれないけれども、三宅の作品を鑑賞するときほど自分が試されていると感じることはありません。
これから数回に分けて三宅克己の作品の魅力について書く機会を与えていただきました。日清戦争から第二次世界大戦までの激動の時代を生きながら、自己を見失わずに淡々と制作に打ち込んだこの画家から学ぶことは、とても大切な何かを得ることでもあるように思えます。
(サイトウミュージアム学藝員 田中善明)
三宅克己「伊賀・名張川の初秋」制作年不詳
サイトウミュージアム所蔵
三宅克己「甲州富士川」1935年頃
サイトウミュージアム所蔵