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   夏の八甲田山    田澤八甲

  「夏の八甲田山の絵が欲しいのだが予算の都合で本年度内、すなわち3月中にそれを描いて欲しい」という青森のある役所の難しい注文を引き受けてしまった。それにしても青森に来て描いて欲しいと旅費を送ってきた。
青森は私の生まれ故郷である。八甲田山は産声をあげた時からずっとみてきた山である。私の名前さえ八甲である。これは親父がつけてくれた名前で、戸籍に載っている本名である。
雪景をみて夏山となす、難しかな。だが何かまた志那式の古風な詩味もないわけではない。「夏林を嘱目して枯林に詠ず」式である。リアル一点張りの先生のお耳に入ったら叱られるに違いないが、これも渡世のみちしがない画師のはなれわざをゆるしたまえ――――と言い訳をしながらつい出かけて行った。
あにはからんや、山は白凱々灰色の雪雲の中に時折姿を見せるだけだ。これではあんまりだ。それに青森に着いたあくる日からずっと吹雪ときた。いよいよ恐縮したが―――幸い私の先輩K氏の八甲田山の写実的な大作をある銀行の応接間に発見したので、それを一日ながめ暮らして、やっと一つの心持ちを得ることができた。

形だけはそらでも知っているので、ともかく仕事にかかることにした。どうせ見ながら描くのでは無いからと青森から離れた浅虫温泉へ宿をとった。
「浅虫では八甲山は見えますまいが ……。」と役所の人々は妙な心配をする。

「見えたってどうせ雪の山ですよ。見えたって、見ないつもりです。」と禅問答みたいなことを言って温泉の宿ふかくひそんでしまった。宿の庭には五、六尺ぐらいの雪が積もっていて大きな石灯籠のあたまだけが、ちょっとのぞいていた。うだる位湯につかって出て、熱燗で一杯やりながら庭を眺めていると雪はどんどん降ってくる。
「さあこれから八月の山を描くんだぞ」と一人で心に言い聞かせていたが、そのうち眠くなってしまった。夏山は夢にも出てこなかった。

然しあくる日は早朝から仕事にかかった。
津軽の平野のたんたんと青くひらけた果てに、濃いコバルト色に聳え立った不規則な八つの峰 ――雪が、真っ白に飛び散って、などと遠い思い出の夏の風景を心によみがえらせながら描く。
「随分ふってるねぇ」とお茶を入れに来た女中と雪の話をしながら、夏山を描き続けるのである。女中は「まア、夏の八甲田山ですネ。ああ目がさめるようでございますネ。ああ早く春が来て、こんな夏の山がみえるようになるとようございますねえ。」と嘆息するように云う。
十一月の末から四月の末まで、明け暮れ雪に閉ざされて暮らすこの地方の人々の嘆きである。私にはその心持ちがわかる。伝え聞いて、別の女中たちが入れ替わり立ち替わりに見に来る。絵を見に来るのではない。「夏」を見に来るのである。
 私は彼らを気さくに部屋に入れてやる。やかまし顔をして「制作中」などとは言わない。そうは言えない「仕事」なのである。
外には雪がどんどん降っている。昨夜からもう一尺五寸も降っているという。
私はともかく、吹雪の音を聞きながら、数日後「夏の八甲田山」を描きえたのである。

出来は私自らが云うべきではあるまい。ともかく、夏らしい、八甲田山らしいものは出来ることは出来た。絵を役所に引き渡して、当日直ちに帰京の途についた。
汽車が青森駅を離れ、車窓の右手に雪に覆われた八甲田山を眺めた時、私はぺろりと舌を出した。そして何か涙がにじんでくるのを感じたのである。自嘲の底にかすかにある哀愁をおぼえたのである。雪山を眺めて、もって夏山となしたこの風流は、雪国の哀れな庶民とともに味わうべきで、役所の応接間とは無関係なのである。
 さらばよし、車窓にもたれて泥酔せんかな。

 (昭和28年5月俳詩「春燈」掲載の文を ご子息の田澤恭二氏よりお寄せいただきました)