column column ナポリ伝説 荒井龍男氏回想 田澤八甲
湯河原の一つ手前の小さな駅,真鶴で降りて15分ぐらい下ればすぐ真鶴漁港である。
坂はくねくねと曲がっているので、汽車からも駅からも港の青い海や家々は旅人にはよく見えない。
昔水彩画家として名のあった三宅克己が欧州から帰朝して、ふとこの真鶴を見た時、「ああナポリとそっくりだ。全く日本のナポリだ」と大いに悦び、そこにアトリエを建てたことがある。やがて画家仲間に真鶴が喧伝され、だんだん有名になった。
確かにそれは描くにはもって来いの漁港であった。樹々に覆われたなだらかな丘陵が、小さな青い湾を抱いて,山腹の樹間にちらほら洋風の小別荘が見える。 (略)
十年ぐらい前に亡くなったモダンアート美術協会の創立者だった荒井龍男は数年間南欧にいた画家だったが、彼もまたこの真鶴を見た時やはり大いに悦んだのである。彼は当時新人中の新人であり、アブスト派の一流中の第一人者であった。しかも抒情的な画家で作品には夢が充満していた。彼がこの真鶴で描いた「海の夢」という作品を私はまだ持っている。
ところで、彼はまたおそるべき大酒豪であったのである。
「おい、田澤、なるほどナポリに似ている。真鶴はなかなかいいね。第一 …… 」と舌なめずりをして彼は云った。
「君の持ってきたこいつはまた大したものだ。海よりも景色よりも、こいつは大したものだ。ナポリどころじゃない」 ―― 荒井は、どうも日本の酒というものは酒くさくていかん、ビールもまずい、ただ君の持ってきたこいつだけは確かにうまい。実にうまい、色合いもいい、匂いもいい、一体何という酒かね ―― と私に聞きながらコップを灯にかざしたのである。
「そいつはナポリという酒だ」私は笑って言った。実は只の焼酎にビールとウイスキーと味の素で作った、いわゆる安い日本的カクテルに過ぎなかったのである。しかし帰朝したての荒井は焼酎のカクテルを知らなかった.嗜好というものは不思議なものだ。 (略) 荒井龍男は「そのナポリで行こう」とくる。その真鶴で何回目かの「ナポリ」を二人で痛飲したのが最後であった。2度目の南欧から帰ってきた荒井と、美術館で二,三日中に例の「ナポリ」で大いにやろうと握手して別れたものだが、それっきり彼は急逝したのである。(略)
この一,二年私は久しく病臥して、旅行等という事は到底できなかった。それが最近やっと起き上がって写生ができるようになった。旅行したい、画を描きたい ―― という灼くがごときものが、私を第一に行かしめたのは真鶴であった。写生をする事よりも、何かを見たい、感じたいという心が深くひそんでいたのである。
久しぶりに真鶴の港に降りたった時、この四,五年の間にかくも変貌するものであろうかと私は驚いた。あのナポリに似ていたという漁港は今や空しき伝説になり代わっていた。ハイカラな薄っぺらな青ペン赤ペンが建てこんで、工場が並んでいるばかりだった。港を見下ろすべき丘陵も段々畑も今はそこになかったのである。ただ、夜、海だけは静かであった。宿屋で海を見る私の手には、荒井龍男の称えた「ナポリ」は今はないのである。私は一杯のコップの水を飲みながら港をながめた。別れ去った恋人のような憎しみと悲しみと,なつかしさ。今は夢のごとくみんな逝ってしまったのだ。
このはるかなものの中に私は茫然として、そして朝まで眠れず、疲れ果て、画も描かず、海も見返りもせず、とぼとぼと、坂を上った。海岸で拾った貝殻が歩くたんびにポケットの中でコソコソと、カサカサと、何かを呟くのである。夢を見ている貝殻の声かもしれない。
( 昭和37年1月 俳句誌「春橙」掲載の文章を、ご子息田澤恭二氏よりお寄せいただき一部省略して掲載させて いただきました )